2020年5月21日木曜日

次々に現れる困難を越えるための弘法大師のことば①

変化する。
世界も、生活も、社会も変化していく。
経済活動へのダメージは大きく、さらに困窮を深める人々で溢れていくだろう。
国の補助なども永遠に続かない。
経済、快楽優先のパラダイムシフトを続けてきた人類だが、脆弱な地盤の上に立った城の如し。真理の門を叩けば、答えは内にある。内なる答えを仏と言う。

自分の生活を、大事な人を守るってどういうことなのか?
変化する世界の中で拘りに負け絶望することのなきよう、弘法大師のことばを学ぶ。


入山興より

貴っとき人も賤しき人も総て死に至んぬ。死に去り死に去って灰塵となんぬ。

(全ての人は全て死にゆく。死んで死んで塵となり灰となる)

豊かな財産を持とうが持つまいが、また社会的地位が高かろうが低かろうが全て死ぬ。
今までも、これからも。
ただただ、灰になる塵になる。


宗秘論より

木を喰う虫 なお 皮木の外の味を知らず。

(木を食べる虫は、木以外の味を知らない)

木の味を知らぬ者は木の良さも知らない。だが環境に慣れきったり、環境を変えられぬ者はそれが無くなったら命を落とす。
しかし我々は虫ではなく人間である。環境が変化するのなら新しい味を探すことができる。職が無くなっても、借金を負っても生きる道はいくらでもある。
こだわりは選択肢を狭めていく。


三教指帰より

短きつるべの水をくみ 疑を井の枯れたるに懐き 小さき指の潮を測る なお底の極まれると謂えり。

底まで届かぬつるべで水をくんで井戸が枯れたと騒ぎ、小さい手を差し入れて海の最深まで届いたと言う)

今までの生活をすべてだと思ってはいけない。住んでいる土地を離れることになろうと、贅沢できぬ身の上になろうと、そんなものは不幸ではない。
不幸の極まりと思うべからず。長い人生には、さまざまな変化があり、広大な智慧をもってすれば今あなたを捕えている拘りなど砂浜の底のようなものである。


三教指帰より

微楽 朝に至れば天上の楽を笑い 小憂 夕に迫れば塗炭に没するが如し。

(小さな喜びが朝まで続くだけで真の楽を笑い飛ばし、小さな悩みが夕まで続けば不幸のどん底に居ると思う)

きらびやかな街で日々狂乱することを喜んで、欲から離れて百年の喜びを知る人を笑いとばし、小さな憂いに振り回され「泥だらけになったと思い込む」
なにも汚れていない。空なる我が身に気が付きさえすれば。負けたりもしない「負けたと思った自分」が居るだけだ。


瑩玄珠碑より

菜を喫い  水を喫うて 楽しみ中にあり。

(菜っぱを食べ、水を飲んで楽しみは 中にあり)

一枚の菜、一滴の水の中にも無限の喜びがある。
己の育てた野菜、汗を流した後の水。さながら天上の甘露の如し。
得難さを悟らず、なんでも手に入ることが当たり前の世界の中に於いては知りえぬ。
深く知り深く思うことで、喜びの世界が広がる。


慕仙詩より

誰か如かん禅室を閉じて澹泊としてまた忀徉せんには 日月 空水を照らす。風塵妨げるところなし。

(誰か禅室を閉じて、あっさりと物事にこだわらず迷わぬよう注意すれば、日月は光を放ち、風も塵も妨げるものは無い)

いっそのこと禅室を閉じてしまったとしても、心の中心に真理の柱を立て、よく注意して迷わねば、常に変わらず日も月も巡りつづけていることに気がつき、建物があろうとなかろうと、風に倒れたり塵に汚されたりすることなど無い。
目を開けば、変わらぬ恵みを与えてくれているものに気がつく。



平城天皇灌頂文より

冬の凍り春に遇へば即ち注ぎ流れ 金石も火を得れば即ち消溶するが如く 諸法は皆縁より生じて自性無し。

(冬の氷春になれば溶けて流れ、金や石も火にあえば消え溶けるように全ての出来事はみな縁によって発生して、自性があるわけではない)

氷と金属の塊は違うもののように見えて、どちらも見合った縁に会えば形を変える。
人は氷は解けやすい金属は変わらないと思いこんでしまう。悪人を導くのは難しい、都会の人が田舎暮らしをするのが難しい。田舎の人が都会の人を受け入れるのが難しい。
思い込みを捨てて縁に従えば、おのずとその姿は変わっていく。
全ての出来事は仏の掌の上、受け入れるも足掻くも人生。
出来事に意味を付けるのは人間である。

ただ、今までの生活から変わることを「負けた」「堕ちた」「嫌だ」と思い続けることこそが、全ての不幸を呼び込む。
誰かのせいにするのではなく自分の縁によってどのようにも変化する。



↑この写真は家族旅行の際撮った大阪市内の写真。

上の左は夜闇。上の右は朝日
下の左の建物は光を受け、下の右の建物は影を落とす。
すべて各の如し。畢竟(つまるところ)空なり。




2020年5月7日木曜日

緊急事態宣言後の未来の集会を目指して!次亜塩素酸水を手作り!

緊急事態宣言が発令されて、一か月以上がたちました。
先の見えない自粛の波は、経済を停滞させ世界中の人の生活を脅かしています。
新しい生活様式も発表されましたが、心に刻まれた恐怖は、簡単に晴れることは無いでしょう。
50人以下の集会の緩和も提言されていますが、緩和されたからと言って感染しないわけではないので、自治会の集会所、会社の会議、劇場や映画館、寺院や教会、寄席やライブハウスなど集まること前提の施設は、特効薬が開発されるまで様々な対策を必要とすると思います。

先日病院で「当病院は次亜塩素酸水で空間殺菌しています。」という張り紙を見ました。
「なるほど病院は、こういうもので対策しているのか。」と思うと同時に「個人でも購入できるのか?」早速自宅に戻って、書いてあった機械で検索してみました。
次亜塩素酸水は非常に殺菌力が強くインフルエンザやノロ等ウィルス対策や食品の殺菌にも使われており、安全性も高いとのこと。
しかし、その機械は田舎の小さなお寺で導入できるような金額ではありませんでした。

「次亜塩素酸ってハイターじゃない?」
思い当って、漂白剤のハイターを調べると、「次亜塩素酸ナトリウム」と書いてあります。しっかり薄めたら同じかも?と思い200倍に希釈して、スプレーボトルに詰めて使ってみました。
…しばらく使うと手がひりひりする。

おかしい。食品の消毒にも使われるという次亜塩素酸水でこんなに肌荒れするなんて。
まだ濃いのかな?

調べなおすと、違う!
ハイターなどの次亜塩素酸ナトリウムは強アルカリ性。次亜塩素酸水は中性から弱酸性。
全く違うものでした。

そもそもコロナ騒動が始まってから、わたくし手洗いを徹底しています。
叩いても壊れないような見た目なのですが、実は肌が弱くてこの数か月、手がもうボロボロです。せっけんやアルコールで脂分が無くなってしまったせいもあるのでしょうが、薄めたとはいえアルカリ性のハイターは肌荒れの危険が大きいことがわかりました。

色々調べてみると、次亜塩素酸水は塩水を電気分解することで割と簡単に自作できるっぽい。
やってみよう!できなかったら他の方法を考えよう!

お断りしておきますが記事は、あくまで今の状況を楽しむためと、これから先の参拝者の不安解消のために足掻いてるだけなので、コロナウィルスに対する次亜塩素酸水の有効性を保証するものでも、自作を奨励するものでもありません。
お金のある方は製品を買えばいいと思います。

そこで出会ったのが
チャンネル名 DIYをめぐる冒険さん
https://www.youtube.com/channel/UCXzDMJq4qJ3rjd5gzXVY0fw

簡単!激安!自作次亜塩素酸水生成器で食塩水を電気分解し次亜塩素酸水の作り方
https://www.youtube.com/watch?v=hH2p-FU-pPk

↑この方は動画内で単一電池を分解して炭素棒をとりだし電極にしているのですが、はたして電池を分解しても良いものか、分解した電池は電池として捨てても良いものかわからなかったので、割とどこでも手に入る炭素棒「備長炭」を使って生成してみることにしました。備長炭は炭素99%なのでちゃんと通電します。

用意したのは


これだけ。
電気分解は電圧、電流に比例して早くできますが、とりあえず動画と同じくUSBを使用しました。
充電器は大体5V 1~2A。今回は2Aを使い、1リットルの水に1パーセントの食塩を混ぜて分解開始!


少しすると塩素臭がしてきます。
備長炭がたまにパキパキ泡をたてて崩れていきます。炭素棒を使っても少しずつ崩れるようですが、塩の中のナトリウムと炭素が結びついて重曹(炭酸水素ナトリウム)ができているからだそう。10グラムの塩しか入ってないので塩素ガスの量も10グラム以下だけど、一応換気も気を使いながら動画と同じく数時間後

できた!・・・・のか?

試薬も試験紙も一応ネット注文しましたが届いてなかったので、出来上がったものが本当に次亜塩素酸水なのか判りません。

試薬が届くまで待つしかないかと思っていたら
先の動画と同じ方が
簡単!激安!自作の次亜塩素酸水の殺菌力とPHを手作り試薬で測定

と言う動画を公開してくださいました。
動画の通りに調べてみたところ、ちゃんと次亜塩素酸水が出来上がっているようです!
後に届いた試験紙と照らし合わせましたが、結果は同じでした。

出来た次亜塩素酸水はPH7で中性。
手に塗ってみると少しプンと塩素臭がしますが、手にこすりつけるとすぐに消えます。
1週間程度使っていますが、肌荒れも起きず良好です。
中性なのでアルコール消毒より刺激もなく肌に優しいような気がします。

本命の加湿器に入れて試運転。
きつすぎない塩素の匂い。
良好ではないかな?殺菌まで出来ているかは未知数だけども。


ただ、次亜塩素酸水は、炭酸水のように塩素が次第に抜けてしまって効果が無くなってしまうようなので二日に一度作り直します。

※追記
できた次亜塩素酸水に備長炭の崩れたものが混ざったままだと、あっと言う間に塩素の匂いが無くなって効果が無くなります(一日持たない)
備長炭では限界があることがわかりました。
試作後ネット通販で5本1580円の炭素棒を購入しました。

そもそも木造建築のお寺は畳や椅子も有機物ばかりなので、ウィルスの感染力持続時間はプラスチックや金属の無機物だらけの近代的な建物より低いはず。
マスクをしっかりしてもらったうえで、呼気に混ざったウィルスを除菌できれば!

お参りしてくれた人が「なんだか心配だな」「大丈夫かな」と思わずに済むように。
3密っていうほど密集する数の参拝者は来ませんが、少しでも安心につながってくれれば良いなあ。


注意として、もし同じように作ってみようと思った方は、紹介した動画をちゃんと最後まで2本とも見てください。あと、動画のコメント欄も読んで行けば、色んな問題点や改良点も見えてきます。
あくまで自己責任でお願い申し上げます!









2020年4月29日水曜日

コロナの恐怖を払う瞑想のための言の葉



大事なことを考えよう。
大事な人といられる時間を考えよう。
大事な人と話せる時間を考えよう。


こんな時だから自覚しよう。
いつもいると思うから  話をしてこなかったことを。
いつも手が届くと思ってるから   教えてもらっていないことを。


コロナ(死)は特別なことじゃない。
人間はいつもいつでも死ぬ可能性を持っていた。
それが目に見えるようになっただけ。


自分だけは大丈夫?
若いから大丈夫?
万物流転(ばんぶつるてん)  老少不定(ろうしょうふじょう)
死は必然である。


思索しよう。
           いつ来るかわからぬ己の死を。
思索しよう。
           己の居ない世界を。
思索しよう。
           己の死後の行く先を。
思索しよう。
           家族の死後の行く先を。


絶望する必要はない。
ただ気がついてしまっただけ。
霧の先の遠きところにいたはずの死が
いつも隣にいただけ。

悟りの入り口に辿り着いただけ

悟りを深めよう。
            今まで死をすり抜けてきたことに。
悟りを深めよう。
            今己が手にしている全ての得難さに。
悟りを深めよう。
            手にしたものの壊れやすさに。
悟りを深めよう。
           己の愚かさに。
悟りを深めよう。
           先人の智慧に。

目を閉じて深く息を吸い。
下腹に力を込めてゆっくりと吐き出そう。
今あなたは生きている。
いきできている。
感謝しよう  今   この瞬間に。

息を感じよう。
自分の息を。
世界のすべてと自分の境など   夢幻の卵の殻
縁に守られ      縁に育てられ       縁に助けられないと
いつでも割れてしまう。
ゆっくりしっかり息を感じ感謝しよう。

そしてその息は世界とつながる。
みほとけの光あふれるこの世界に。
恵も厳しさもあるがままに与え続けてくれる。
罰ではなく報いでもない。
ただただ与え続けてくれる。

遠離一切顛倒夢想 (おんりいっさいてんどうむそう)  一切の夢想を離れよう。
穏やかな悟りの世界で。
真の感謝を覚えよう。

羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶
(ギャテイ・ギャテイ・ハラギャテイ・ハラソウギャテイ・ボージソワカ)





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真言宗には阿字観(あじかん)という瞑想法があるのだけれど、お寺に出向いてちゃんとした指導を受けられない今、不特定の人々にこのような場所を通じて阿字のなんたるかを指導することは難しい。

巷には瞑想がマインドフルネスなどと呼ばれ、薄っぺらい流行りもののように紹介されている。だがマインドフルネスには救いがない!
繰り返すが、宗教的下地を取り除いたマインドフルネスという瞑想には救いが無い。
目をつぶり冥を想うこと。これ瞑想である。
冥(くらやみ)の先が必要なのだ。
かっこいい耳触りの良い横文字にして本質を取り除いた残骸である。
もしその先を示すならそれはすでにリラクゼーションではなく新興宗教なのだ。

無念無想は下地がないと難しいので、言葉で静かに導入する方法として
今回の言の葉(きれはし)を記した。

あくまでもこのページに縁のあった人に向けている。
瞑想の入り口なので気張ることは無いが、身を清潔に保ち線香などを焚いて香りを感じながら背骨の歪まぬ姿勢でやってみてください。
ほんとは暖かい日だまりに仏壇の前でやってほしいところだけど。
お風呂を出た後温かいお布団の中でも良い。

自分の振る舞い  己の身の周りを考え、そこから深く世界に心を広げていく。
そして気が付いていく。
息をしていることに。
その息をとりまく偉大なものに。

体の力を抜きあごの力を抜く。知らず知らず歯を食いしばってたことにも気が付くだろう。ゆっくりと鼻から息を吸う。そして下腹に力を込めて肺の空気を体から押し出すように吐き切る。
息を数える。
吸う吐く。
これで一回。
長時間する必要はない。
10回から20回の息をしっかり数える。
これを数息(すそく)という。

そして最後に般若心経の核心である真言を唱えて終わり。

作法は私のオリジナルだけど真言の教えは外していない。言葉を開いたので崇れを持たぬ人にも受け入れてもらえるかもしれない。

もし少しでも安心(あんじん)を感じることができたなら、
この騒ぎが収束したのち、どこでも良い昔からあるお寺の門を訪ねてください。


















2020年4月15日水曜日

ただいま待機中。コロナが怖けりゃ掃除しよ ♬

皆さん不安ですね。
安心した状態でないことを不安と言います。

テレビを見ていくら情報を仕入れても同じです。
何万人が罹患しました~何万人が亡くなりました~。若者があんなところでこんなことを!年寄りがこんなところに出かけています!
こんな情報をいくら仕入れても、何になるでしょうか?不安が増すばかりです。

大事なことは、体にウィルスを入れないための行動。外出時はできるだけ物を触らない。目をこすらない。帰ったらまずマスクを外して漂白剤などを薄めた水につける(使い捨てでも)そしてうがいをしてから顔を洗い、しっかり爪先まで石鹸で手洗いする。ウィルスは多くの場合粘膜から侵入するので、とにかく手洗いとうがい位しか私たちのできることは無い。

あとは、「免疫力を高めること」
免疫力を高めるために、一番良いのは笑うことだけど、不安なニュースばかりの毎日の中で笑うのは難しい。

小児ガンの子供たちにガン細胞を退治するゲームをしてもらうと、免疫力が高まって自己治癒能力が向上することは知られています。
ゲームでも良いんですが、私のお勧めは掃除です!

特にお仏壇の掃除!

仏壇の掃除してますか?何十年もサッと拭くぐらいで済ませていませんか?
今まで見向きもしなかったくせに、こんな時だけ助けて~なんて思ってませんか?

お仏壇の汚れや、お位牌の汚れを退治して自分の体が磨かれているようなイメージで掃除をするのです。
もちろん仏壇じゃなくても、何十年油まみれのレンジフードの掃除でも構いません。
とにかく、綺麗になっていく姿を自分の体に投影しながら掃除をするのです。

まあ私は住職なので、お仏壇の掃除を強く勧めますが(笑)

用意するものは、


雑巾(おススメはマイクロファイバー雑巾)浄巾(新しい布ならなんでも)
金属磨き、仏壇磨き、灰ふるい、軍手、割りばし、ティッシュ。必要なら紙やすり


我が家のお仏壇は、もともと本谷の上田アサコさん宅で長年使われていたお仏壇です。
アサコさんがお亡くなりになられた後、お住まいも売りに出されお仏壇も処分されることとなりましたが、見事な細工が施されたお仏壇を処分してしまうのも忍びなく、我が家のご先祖様をお祀りさせていただくこととなりました。

真言宗のお仏壇は、紫檀や黒檀を使ったものが多いのですが、この辺は姫路仏壇と呼ばれる金箔を多用した真言宗のお仏壇も多いです。



まず最初に、仏さま、お位牌、仏具をすべて移動します。移動する前に写真を撮っておくといいでしょう。机の上もしくは敷物を敷いて畳や床に直接置かないように。

お仏壇はともかく仏像を掃除しても良いんですか?なんて人がたまにいますが、良いに決まってます。心配なら、移動していただく前に手を合わせ、「お身ぬぐいさせていただきます」と口に出すといいでしょう!



おススメの仏壇磨き「光」仏具屋さんで売ってます。
少し研磨剤が入っています。漆塗りのところに、とても素晴らしいつやが出ます。
くれぐれも、金箔のところは拭かないでください。金箔が一瞬で剥がれます。

磨き前
磨き後



小さな傷も丁寧に磨いてピカピカになると、わが心も澄み渡るようです。

綺麗になる→ご先祖さま仏さま喜ぶ→自分が喜ぶ→みんな喜ぶ!
こういう気持ちで、一つ一つの作業を丁寧に行います。

真鍮磨きは心中磨き!
かなり錆びた真鍮も300番くらいの紙やすりと、金属磨き(ピカールなど)をつかえば
この通り!

磨き中
磨き前
完成!

くれぐれも金箔はこすらないでください!
上のように漆の上に数ミクロンの金箔が貼ってあるだけなので、スッとこすっただけでも剥げます。その時は大丈夫でも、あとで黒くなってしまいます。
金箔のホコリは、掃除機で遠めから吸うか、少し水を含ませたマイクロファイバー雑巾でほとんど力を入れず上から押さえるように撫でるしかありません。(剥げても自己責任でお願いします)

上から吊ってある金具なども、注意深く外して、サンポールなどを薄めた水に付けるだけで、驚くほどきれいになります。(きっちり薬剤を大量の水で流すこと)
ビーズ飾りなどは糸が切れてしまうこともあるので布に付けて拭くこと。後で水拭き。


 お位牌だって意外と汚れています。
お線香のヤニは、なかなかしぶといです。
「おシカさんお体拭かせてくださいね」会ったことのないご先祖さまですが、声をかけながら、フキフキ。ピカピカに。



















ついに仏さまの番です。

昔流行った割りばしにテッシュを巻き付けて輪ゴムで止めて作ったマツイ棒(笑)
お仏壇の隅っこや角を掃除するのにも大活躍です。

しかし、仏さまのお身ぬぐいには、他の部分を掃除した布などは使ってはいけません。新しいティッシュで新しいマツイ棒を作って撫ぜるようにお体をぬぐわせて頂きます。
「いつもいつもありがとうございます」「知らぬ間にこんなに埃を積もらせてしまい申し訳ありません」とゆっくりゆっくりお身ぬぐいします。


ほらもう全部ピッカピカ!
そして元通り並べ治すのですが、この機会に、正しい並べ方に直すのも良いでしょう!

浜屋ページより転載

多宗派の方なら、私がお世話になってる仏具やさん「浜屋さん」のホームページ。
トップ→仏壇・仏具→ご宗派別の飾り方

を参考にきれいに並び直してください。

全部並び直して、ロウソクをたて、お線香を立てます。
ゆっくり深呼吸して「ありがとうございました!」

うんうん匂いもちゃんと判るし、イワシの頭も何とやら、私の体の中の免疫細胞たちよ!ピカピカに磨かれて働きやすくなったに違いない!


もちろんこれだけで何とかなるわけではありませんが、ワイドショーなんかで必要のない情報を仕入れるより、少なくとも磨いている間、何とも言えぬ安心を覚えられます。
プラセボ(偽薬効果)を馬鹿にする人が居ます。でも昔はこれしかなかったし、これだけで様々な病気を乗り越えているのも「一つの紛れもない事実」です。

お寺も今回大きな影響を受けています。私も自宅待機状態で何の予定も無くなってしまったので、掃除と修理ばかりしています。5年以上も壊れたままだったパソコンを2台。掃除機一台、ハードディスクレコーダー1台。網戸10枚。あきらめ切っていた数々の物の直し方が、み~んなyoutubeの動画で親切丁寧に教えてもらえる!

掃除や、修理修繕などの作務を自分の体や心と結びつけることは、禅の一つで仏の智慧です。宗教だと嫌わずに、受け入れてやってみましょう。

あなたの安心がみんなに伝わって、あなたの家族もみんな息災でありますように、毎日遠い田舎の小さなお寺からも、皆さまの健康をお祈りしています。





2020年4月10日金曜日

春の桜の村のいのりに


毎年恒例の郷社の春祭り。
同じ日に三国各霊塔の供養もさせていただいております。

今年は残念ながら相撲大会やくじ引きは無し。
でもお祭りに関する大事な祭祀は役員さんの参加で行われました。


前にも紹介しましたが、この三国各霊塔は、わが村が世界に誇ることのできる偉大な先人の足跡です。

『田中政右ヱ門という村人が日清戦争の真っ最中に夢を見た。

日本軍が戦っているところを上空から眺める夢だった。
最初は日本軍の優勢に大喜びだった政右ヱ門さん。
しかし、銃で撃たれ倒れる若者は敵も味方も苦しみの表情を浮かべ、家族や恋しい人の名を叫び悲しみの中死んでいく…。

この夢を見た政右ヱ門さんは、
戦争とは言え三国(世界中)誰の死も喜ぶべきではない!

と 村人に自分の思いを打ち明けた。
政右ヱ門は私財をなげうち、たくさんの人々の協力を得て立派な供養塔を建てることができたのだった。』


狂乱の時代に酔うことなく真実を見抜いた政右ヱ門さん。
戦時中にもかかわらず敵を供養するという言葉に耳を貸し、協力してくれた当時の村人たち。

飾り気無く道端に静かに立っている塔ですが、本当に当時の志の高さに頭が下がります。
イは居 ノリは法。 政右ヱ門さんの言葉が振る舞いが、周囲に感銘を与え、100年以上たった現在まで政右ヱ門さんのイノリが生きています。

今年は三国分け隔てなく、世界中のコロナウィルスで亡くなった全ての御霊とその家族の心が救われますように。一日も早い混乱の終息を合わせて祈らせていただきました。

毎年供養のお経を唱えた後に、少しお話をさせてもらいます。
今年は、100年前のわが村を襲ったコレラや赤痢のお話をさせていただきました。

過去の事を知ること。
知ったうえで、その時の人々の気持ちを想像すること。
親を亡くし、子を亡くし、兄弟を亡くし、情報もいきわたらぬ中、消毒も十分でない中看病や死者の埋葬にも危険が伴っただろうに。どうやって死を、病を乗り越えたのか。


必ず人類は今回のコロナの困難も乗り越える。
でも、人間関係や社会関係の根本が壊れてしまっては元も子もない。
社会にも大きな病巣を打ち込んだ今回のウィルス。

どのような未来を作っていくか?収束後の人間の立ち居振る舞いにかかっている。

ヒステリックに他人を拒絶し続ける社会がどんな人間を育て、どんな国を形作るのか。
自分に子供が居なければ達観して先行きを笑うのだけれど。

行く川の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。
川は目の前に同じ川としてあるが、それを形作る水は一瞬たりと同じではない。常に入れ替わっている。
一滴一滴の水が拒絶して反発しあったら…どんな風景が見られるでしょうね?


散る桜
        残る桜も
                    散る桜。
今日と言う日を  
                     謝して暮らさん



2020年3月23日月曜日

お釈迦さまによるコロナのとらえ方



彼岸のお参りで村の人とお話すると、思った以上に不安を抱えていることに驚きました。「世界が滅びるんじゃないか?」なんていう顛倒夢想(てんどうむそう)に至ってる方もおられました。田舎でも農作業で外に出る人が年々減って、テレビばかり見ている人が多いからなのか。

夢想や妄想に陥らないために、諸法空相の心身をいかにコントロールするか。
お釈迦さまの説かれた八正道(はっしょうどう)にあてはめ今回の困難を正しくとらえてみます。

正見(しょうけん)正しく物事を見ること。

正しく物事を見る。情報のあふれる現代では、かなり難しいことではあるが、今回のコロナウィルス予防に関して、私たちが受け取る中で間違いないものは、いくつかある。

1、(市販レベルの)マスクは予防にはならない。ウィルスは呼吸とともにマスクの網目をすり抜ける。

2、しかし、マスクは唾液などの飛散を防ぐのに効果がある。(拡散防止)

3、手洗いとうがいは、体内にウィルスを取り入れる頻度を減らすことができる。

4、持病(糖尿病、呼吸器疾患など)のある人は重症化する。

5、無症状の人もいる。

6、40度近い高熱が一週間続くことがある。

7、発熱を抑えると重症化リスクを高める。高熱に耐えられる体力が最低限必要である。

8、今のところ決定的な薬は無い。抵抗力と体力がカギである。


正思惟(しょうしゆい)正しく考えること。

1、仮に誰かに病をうつされたとしても、その人を恨まない。その人も誰かにうつされた人であり、感染に気づくまでは自分もうつす人である。

2、すでに早急な撲滅は不可能であるが、これで世界が滅びたりはしない。

3、様々な苦しみを乗り越えた上で社会を維持してきた先人達に思いを馳せる。

4、コレラもペストもスペイン風邪も知識を蓄えた賢人たちが薬を開発して乗り越えることができた。今回も凡夫たる我々はしっかりと薬を開発、製造、配布できる秩序が崩壊しないように維持しなければならない。

5、意外と簡単に秩序は崩壊する。それは集団意識による。

6、トイレットペーパー騒動のようなことを薬や医療の現場に起こしてはいけない。

7、疑い、疑われる世の中を続けていくことで訪れる社会を想像する。

8、混乱に乗じて他人を蹴落とすようなことをする人を鬼の姿とみる。

9、自分を暗い周囲を照らすロウソクだと考える(自灯明)

10、恐怖と言う病に深くかかると治す術は無い。コロナよりも恐ろしいかもしれない。


正語(しょうご)正しい言葉を話すこと。

1、不確かな情報を拡散しない。流言飛語は人の心をすさませる。

2、暗い言葉はさらに己も周囲も暗くする。反復する波の如く大きな闇となる。

3、子供たちに「苦しくても生きる」意味を教え伝える。

4、希望を語って安心を生み出す。それは自分の希望にもなる。

5、自分が絶望したからといって、人の足を引くような呪いを吐いてはいけない。

6、うれしい。ありがとう。楽しい。健康に生きられている今に感謝して言葉にする。

7、安心を分け合う。笑顔と温かい言葉が安心をうみだし抵抗力を向上させる。


正命(しょうみょう)正しく生活を営む

1、手洗い、うがいを徹底する。

2、くしゃみ、せきをするときは、マスクをしていても手を添える。(空気の拡散防止)

3、あの食品が効く、あの飲み物が効くなどのうわさに踊らされず、普通にバランスよく食事をして体力を蓄える。

4、己の仕事を黙々とこなす。

5、混乱に乗じて不善をしない。

6、ルールにのっとり規則正しく生活をする

7、正語によって安定した社会、家庭、人間関係を維持する。

8、毎日お風呂に入る。

9、テレビを消して掃除をする。


正業(しょうごう)正しい因果をうみだす。

1、自分の行いが社会にどういう影響を与えるかしっかりと見抜き抑制する。

2、やめてしまうことと、行うことの結果を100年後まで考える。

3、病に倒れるより己の魂が汚れる行いを憎む。

4、自分や自分の子供でなくとも、手を差し伸べる。それはいずれ返ってくる。

5、自分だけだから、これぐらい大丈夫と悪業をなさない。みんなそう考えている。


正精進(しょうしょうじん)正しく努力する。

1、正業によって見抜く先の世の中にむけて、己のできることを努力する。

2、己が得た正しい教え、正しい生き方をたくさんの人に伝える。

3、不善をなす人をうらやまず、正しい行いこそが未来の子供や自分たちの平安につながることを肝に銘じ実践する。

4、この騒動をチャンスとし、この際に飲酒・喫煙習慣、食生活などをしっかり見直す。


正念(しょうねん)正しく念ずる。

1、自分の身の状態を正しく知る。

2、自分の心の状態を正しく知る。

3、自分が安心できる方法を探る。

4、様々な困難を乗り越えるのは自分の力だけではないことを悟り、身をゆだねる。

5、社会を大きな目で俯瞰する。


正定(しょうじょう)正しく集中し禅定する。

1、正念、正定が正しく行われなければ正思惟(しょうしゆい)に至ることは無い。

2、息を整え、身を清潔にし、意識を我執(我にとらわれた心)から放す。

3、身を整えること→息が整う→意識が整う。

4、息を整えること→身が整う→意識が整う。

5、意識が整う→身も息も整う。

6、禅定は難しくはない。椅子に座ってもベッドの中でもできる。

7、出来うることなら僧侶に学ぶ。


正定→正念→正思惟から、実践である正見、正語、正業、正命、正精進にいたる。逆もまた真。

仮に己が死んだとしても世界は変わらず続く。
続く続く世界が子供や孫にどんな影響を与えてしまうのか、考えを大きく広げる。
子供や孫がいないからと言ってこの責任を放棄するのは悪である。

仏教的に言えば輪廻する我々は、解脱できない限り、またまたこの世に生まれ変わって生きなければならない。
死んだら後のことは知らないよ~私だけ助かれば良いよ~と後の世を考えずに死ぬと、混乱した最悪の未来に生まれ変わって生きなければならない。

己を磨いて社会を考えることが、結局自分の得になる。
ほんとに良くできている仏教のシステム。
混乱した今に正しく責任を持つことは、未来の自分の楽につながっている。

作業、作務も禅定になる。感染の心配せず草引きや農作業でも十分無になれる。
田舎ぐらしを真剣に見直す時である








2020年3月16日月曜日

そもそも死の覚悟がないと、この世は苦しい (コロナ)

朝日とするか夕日とするか…己のこころ次第である


コロナウィルスの見えない猛威で世界中が委縮している。
情報を仕入れれば仕入れるほど、敵は巨大に醜悪に感じられる。
怖がるだけでなく、これから常に「在りえる」ものとして受け入れなければならぬ。

世界は、ほんの数十年前まで死が蔓延していた。
戦後まさに奇跡的なバランスで数十年の安寧を得られていただけなのだ。自然災害にしてもそうだ。先日のエントリーで100年前のわが村の災害について書いたが、常に災害、疫病など世界は理不尽で突然な死にまみれていた。

若かりし頃、映画や本で描かれた2020年ごろの世界。人類は様々な困難を科学と医学の発展で乗り越えて、もはや敵と言えば宇宙からやってくる何者かだけ。と言うような希望に満ちていた。しかし、あいも変わらず台風どころか雨一つ。地震は予知すらままならず、津波を止めるすべもなく、温暖化もコントロールできず、今また、小さなウィルスに翻弄されている。本質的には何も克服していない。

人間はまだまだ自然が許してくれる範囲の中で生きさせてもらっている。

お釈迦さまの時代と何も変わっていない。世界は生きる苦しみ、老いる苦しみ、病の苦しみ、死の苦しみで満ちている。

しかし、あなたの命を奪うのはコロナではなく突然の心筋梗塞かもしれない。家に突っ込んできた大型トラックかもしれない。死はいつでもあなたや大事な人を奪う。

住職になって数十年たくさんの人を見送ってきたが、病や老いを受け入れた人の強さを たくさん見せてもらってきた。しかし、近年かなりの年配に至っても、「死」が怖くて怖くて仕方がない人が多くて驚く。やはり身近に死を見ないままだったからだろうか。

失うことは怖い。積み上げたものは倒したくない。しかし、あの世には何も持っていけないし、残すことが家族のためになるとは限らない。

奇跡的バランスで得られていた安寧に感謝することもなく、苦難を乗り越えた先人から学ぶこともなかった浮かれた時代は終わった。今こそ悟るべきだ。

人間は弱いと。

苦しみに出会ったときに、神に許しを請うのではなく、弱い人間が苦しみを越える方法を徹底して考えたのがお釈迦さまだ。

物事を明らかにする眼を培い、正しく考える。苦しみをさらに広げる毒を取り除くのは、自分にしかできないんだよと。

死を怖がりすぎると生きるのが難しい。
自分だけではなく、子や孫、配偶者たちを いつやってくるかわからない死から守り続けることは不可能なのだ。一切表に出ない、出さない生活をしても人は死ぬ。
そもそも死の覚悟がなければ生きていくのは、本当に難しくなる。

有史以来、常に死が隣り合わせだった時代が一見遠ざかり、近代に入って死を怖がらない方法を捨てに捨ててきた。

弘法大師の言葉

それ病無きときは即ち薬なし。障りある時は即ち教えあり。妙薬は病を悲しんで興り、仏法は障りをあわれんで顕わる。 (病気の無い時には薬も必要ない。問題のある時にこそ教えは役立つ。良い薬は病の悲しみより開発され、仏法は問題を悩む心に応じて明らかになる)

まだまだ私見であるが、

人が集まれば法(ルール)ができる。良い心の集まりを法身(ほとけ)と呼ぶ。己が去っても生きざまより形作られた世界を次の世代に残すことができる。自分の命に拘りを持たず、ただ形作られる法の姿(社会)を喜び、いずれ去って法の一部となる(法身と成る)ことを喜ぶ。これを成仏と言う。

塵のように夢幻のようにはかない我々だけれども、死と隣り合わせに生きながら、それを輩(ともがら)として、己が去った世界そのものを己と思うこと。

私がお大師さまより
学ぶ死の乗り越え方である。






2020年3月2日月曜日

コロナと疑心暗鬼 繰り返す時代


お寺には過去帳と言うものがあり、誰がいつどのように亡くなったか記してあります。もちろんすべての人ではなくて、判る範囲ではありますが。

そこからひも解くと、大正時代のわが村は、大変な混乱期でした。

気候が定まらず、大正5年ごろに長雨で水害が起きた記録があります。
その前後日本中で感染症が蔓延しました。コレラ、赤痢、結核、続々と疫病に見舞われて、小さい村なのに驚くほどたくさんの人が亡くなっています。
一軒の家に1~4人。全滅してしまったお家もあります。

あまりにたくさんの人が亡くなったため、株つぎ(親戚などに跡を継いでもらう)せざるを得なくなったりしています。

お年寄りばかりでなく、子供もたくさん亡くなっている中で、苦しかっただろうなあ。よくこの困難を乗り越えたなあと、その当時の状況を想います。

100年前とまるで同じような出来事が次々と起こっています。
当時はここから恐慌→戦争へと突き進み世界を激動と混乱が支配しました。
同じ道を歩むことは無いと言えるだろうか?


疑心暗鬼


疑う心が育つと、ただの暗闇に鬼が潜んでいるように感じる。
これを疑心暗鬼と言います。



環境や背景がわかっていると完全な暗闇だろうと怖くありません。
自分の部屋で電気を消して目をつむっても怖くないようなものです。

しかし、突然目隠しをされたまま誘拐されて、何処かわからない足元の悪い暗闇の森に放り出されたら?
鳥や獣の声も恐ろしく聞こえ、木々や草木は足を切り、あなたをさらった何者かが前後もわからず襲ってくるように感じられるでしょう。


コロナウィルスは、まさしくこの突然あなたを暗闇にさらった何者かと同じです。

どういう敵か判っていない。どこからやってくるかも分らない。対処法も解らない。
検査が行き届いてない中、日本全国すでに数十万人の感染者がいるように思えてしまう。

わからないから怖い。

わからない強敵を相手にしている今。

意味のない買占め!デマ!絶望の流布!こんな時敵を増やしてどうする?


疑心暗鬼に陥ると、どう考えても間違った行動をとってしまうことがあります。
東北の震災の時もそうでした。

私が得だからという行動

先日台湾の方が書いたネット記事で、日本で車を運転していると合流などで、とてもスムーズに入れてもらえるので日本すごいと感じる。という記事がありました。
その記事に

「別に凄くない!そうした方が得だからやってるだけ。」

というコメントが付いていました。

「そうした方が得だということがわかっている」
というのは、自分の手柄ではありません。

良いことしてるほうが巡り巡って得であるという教育や風土の中で生きてきたから「わかる」のです。

この人の場合は「判る」です。経験と知識により得か得でないかを判別したからです。本当に理解している場合は「解る」です。

この人は機械的に日本の風土で培われた判断力で物事を判別しています。良いことを続けることが本当の得につながるという本質を理解をしているわけではありません。

いわゆる「つけ焼き刃」です。
価値観の断絶が進み、日本中つけ焼き刃な人だらけになってしまいました。

だから、社会的な混乱が起きると、この判断にブレが生じます。


どっちが得か今までの経験で判断できない場合、

①「より得そうな方に飛びつく」
→たくさんのものを買い占めたり、他人が困ろうと自分だけのために行動する。

②「自分で判断がつかないので周りの人の行動に合わせる」
       →買占めを耳にしたり目にしたりするうちに、自分も2個3個と多めに買ってしまう。

③「動けなくなる」→判断ができずに動けない。

上のような行動になります。
➀が増えると恐ろしいことになります。他人が困ろうと自分のためだけに動くことは、一見得なように見えます。

でも他の人も自分に対して「困った」行動をするようになり結局、自分も困ることが増えていきます。
そしてそれは、どんどんエスカレートします。


➀の人はどんな時代にも一定数存在します。これは仕方ない。
大事なのは②の人が①にならない!③の人が②にならない!



災害や混乱の時、本当に得なのは、
④「落ち着いて行動する」
→しっかり情報を学び、不自由を覚悟し、分け合うことを前提に行動する。


これまでの日本には、「得」を「徳」に置き換えて、困難な時に「得じゃなくて徳を積む」ことで、人格者として立ち回ることを礼賛してもらえる土壌がありました…が、すでに昔。

真面目に「人のため」とか、一生懸命!なんていうことを何故か笑い続け、遠ざけ続けて来た結果、誰もが


「自分の得のために動いて何が悪いの?」


という自分も含めて一番みんなが損をする方向に動く。

情報過多の世の中で、今確実になっている情報を的確に見抜くのは本当に難しい。デマに乗らずともこんな時に、何の役に立たない絶望を垂れ流す人もたくさんいるようです。

でも津波の時にもあちこちで聞いた
相田みつをさんのことばは真実でした。

うばい合えば   足りぬ
わけ合えば   あまる

付け焼刃でなく
学んだことを理解して本当に得な(徳な)行動をとってください。













2020年2月21日金曜日

唯一神とは? ~あるエホバ信者との邂逅~

エホバの証人の信者さんがお寺にもやってきて、ものみの塔のパンフレットをくれる。

よくキリスト教と間違える人が居るけど違います。似ていますが別物です。
キリスト教と「同じ神」を信仰し、新約聖書、旧約聖書を合わせた独自の聖書を用い、終末思想を色濃く持った新興宗教です。




時に一時間以上にわたって色んな質問をします。一生懸命答えてくれます。聖書では~。神は~と様々に引用をしながら話をしてくれます。その場で答えられないことは、必ず一度持って帰って座談会をし「皆で理論を整えてから」持ってきます。

一生懸命「神との約束を守ろう」と生活しています。

初期は若い2人組の女性が来てくれていた。「若いのに奉仕でパンフレット配りして偉いなあ」というくらいの感想で、パンフレットを受け取って少しお話をする程度でした。しかし、一度突っ込んだ話をしてみよう!と思い聞いてみた。


「あなた方の信じる教えでは、お寺は邪教の館であるし、私はサタンの使いという扱いだけれども、ここへ来るのは肝試しみたいなことだろうか?」

思わず吹き出す女性。でもその通りなんだよね。

たわいもない会話をきっかけに「なぜ、奉仕でパンフレット配りや布教活動をするのか?」「世間で言われているような戒律は本当にあるのか?また、それを守っているのか?」など話を聞いたり、ついでにうまいこと仏教の話をしてみたり。

すると。まあまあ聞いてくれる。「家が仏教だったのに知りませんでした」なんてことを言って私の話に納得するとアウト!

次から違う人が来るようになります(笑)


何度かそれを繰り返した後に来たのはエホバ三世のイケメン。


結構えらい立場だそうで、二人組が基本なのに毎回一人でやってきては、本当にいろいろお話をしました。私はもちろん旧約も新約も聖書はかなり読んでいます。コーランも一通りは目を通しています。


その中で本当に疑問に思っていた「唯一神」という存在についての疑問と長年に渡って彼から聞いた話をまとめました。


最初のころは攻撃的に目を合わさず、何か質問をしても、必ず聖書の1節で返してきていた彼ですが、何度も何度も話すうちに「聖書ではなくて、あなたの声で話して」というと、お話してくれるようになりました。もっともっとフランクなやり取りでしたが集約しています。


〇 神さまはなぜこんなにも人間を不均一にしたのか?>

神は完全な人間を創っていたが、人間が知恵の実を食べたことで勝手に堕落した。神に責任はない。



〇 智恵の実を創ったのも神だし、人間をそそのかした蛇を創ったのも神。全知全能なのに結果がわからなかったのか?>

神は寛大な心で人間に自由意思を持たせた。ゆえに堕落した後も愛情をもって人間を見て下さっている。



〇 前に来た信者女性が東北の津波を「神の天罰です!」と話していたが、エホバの証人の信者も犠牲になっている。神が全知全能を示すために、非信者のみを突然死させなかったのは何故か?>

天罰と言うのは総意ではないが、信仰心へ自ら目覚めさせるために試練を与えている。信者はその役目のために殉教した。



〇 真言宗では、唯一神とは呼ばず、始まりと終わり、因と果、宇と宙、有と無などの象徴として大日如来と呼ぶが、宇宙は現象そのものなので感情がない。起こるべきことが起こるし、起こらないことは起きない。だから津波は自然現象だし、原発事故は人間の自業自得だ。唯一神は時に人間がバベルの塔を作ったことに腹を立てて破壊したり、堕落した街を塩の柱にしたりする(と聖書に書いてある)。唯一神に感情はあるのか?>

yes。もちろん愛もあるし憂いもある。



〇 神は全知全能なのに小さな人間の行動や、神自らの感情に左右されるのか?>

yes。しかし人間の推し量れるような理由ではない。



〇 全知全能というわりに自分の言うことを聞かない(自分をたたえない)ものに苛烈な振る舞いをしているように見えるが、これはアリを水槽で飼いながらそれを上から見下ろして喜び、時に水槽から脱走しようとしたり、餌をやろうとした際、指に噛みついたりするアリをつぶす行いとどこが違うのか?>

神の愛は深くすべてを創ってくれた父である。それに反抗する者に罰は当然の報いだ。



〇 罰と言うのは誰が決めるのか?>

神である



〇 神に対する反抗と神を信じないものを殺人することは、どちらが大きな罪なのか?>

神に対する反抗のほうが大きな罪である



〇 それは恐ろしい考えではないか?社会的常識より信仰が上にあるということか?>

普通の営みの中で殺人することはあり得ない。神の戒めにもある。



〇異教徒は不殺戒の対象外のようだが>

時代によってはそういうこともあったのかもしれない。



〇 滅びの日(エホバの証人はいつも遠くない未来に滅びの日を設定する)は、いつも来るたびに先送りされているが何故か?>

単に間違えただけである。聖書の研究を続ける中で解釈の間違いをその都度訂正している。



〇 上層部の決定ということではないのか?上層部が教えの解釈を下達するなら上層部の正常性は誰が担保するのか?あなた方は基本外部との接触を制限されているし、本やテレビ、社会常識なども教団内でのすり合わせに即しないものを遠ざけているが?>

聖書の考えを深く知ればそんな変節はあり得ない。



〇 あり得ないと思っていた信者達が上層部に騙されたのがオウム真理教だと思うが?>

私たちは世界中の兄弟、家族たちと、その心を共有しているから間違えることはない。



〇 人間に絶対はないと思うが?>

一人の人間ではない集団である



〇 神との約束の生活を続けることで何を得るのか?>

滅びの後、創造された新たな世界で罪を背負う前の「完全な人間」に戻る。



〇 「完全な人間」とは?>

聖書では人間が罪を背負う前には、病気もケガも寿命もなく神のうつし身として皆苦しみなく生きていた。神を信じないもの達は裁きの後、悪魔たちとともに魂が完全に消滅する。



〇 すべてを創造した神は、なぜ悪魔を創ったのか?>

悪魔はもともと天使だった。人間を導く立場に創ったが人間に嫉妬したり慢心して堕落した。



〇 天の3分の1(エホバの経典による)が天使から悪魔に堕天したというが、会社で3分の1が社長に反対して辞めたということは、社長にも問題があったとは考えないか?>

神と同じく悪魔の考えも図れない。



〇 新しい世界で新しい体を得たあなたには「喜怒哀楽」は残っているのか?>

もちろんである。自分を持ったまま新しい世界を完全な体で生きることを許される。



〇 江戸時代にキリスト教が伝来した際、ザビエルから「聖書の教えを聞いていないもの、信じない者は救われないこと」を 聞いた農民が、「それでは、私たちの祖先は永遠に救われることがない。あなた方の神は無慈悲である」とザビエルに話したというが、やはり救われないのか?>

yes。神の教えを聞いたことの無いもの、聞いたことがあるにもかかわらず耳を貸さない者は地獄へ堕ちる。もしくは消滅する。



〇 では私はやはり地獄行きですか?>

yes(笑)しかし悔い改めればその限りでない。



〇 選別が神の意志なら、絶対に選ばれるという保証は無い?>

選ばれるべく努力をしている。



〇 では、あなたの父母も選んでもらえない可能性はありえる?>

yes。しかし選ばれるべく努力はしている。



〇 世界が滅んだあと自分だけが生き残りたいというように聞こえるが、もし仮に世界が滅ぶなら全員滅んだ方が平等ではないか?>

神の信頼を勝ち得るのが目的だが、できることなら世界中全員を信者にしたい。



〇 仏教では信者か信者でないかより、善人かそうでないかを重視して、自分がしたことの責任をとることが死後の世界の役目だが、なぜ神は信者であることを望むのか?>

神の愛である。子が父を讃えるのは当然だ。



〇 神は信仰を必要をしている?全知全能なのに?>

神の心を量ることはできない



〇 破滅をたてに信仰を求めて食料にしている妖怪の類(たぐい)のようだけれど…>

それはない(怒)



〇 新しい世界では目的はあるのか?>

神を信じる者たちだけで新たな世界を満たすことが目的である。



〇 やはり神にとって不純物(非信者)の混ざっていない美味しい食料(信仰)保存庫みたいだけど?>

そんなことはない。誘惑しないでください。




〇 では新しい世界には寿命もないというが、死なない死ないということを真面目に考えたことはあるか?何億年どころか無限の時を生き続けることが本当に楽しいことだと思うか?>

楽しいに決まっている。



〇 自我がある状態で無限の時間を過ごすというのは、(神が信仰を必要とするように)楽しみや喜びなどの原動力が必要だと思うが、苦しみや怒りなどの抑揚無い世界で楽しみを永遠に感じ続けることができると考えるか?>

わからないが、完全な人間はそれを克服していると思う。



〇私は極楽という状態を母のおなかの中のように自我無く、温かく守られ母と同一となっているような状態で、海の水が一時地面に雨となって降ったのちに海に戻るように「全の中の一つ」に戻る状態だと考えているが、楽園は違うのか?>

違う。完全なる人間は個別に永遠を生きる。



〇永遠に神を讃え続ける存在と言うことか?>

yes.




〇 私は世界中の宗教は仰ぐものは数あれど、等しく人類の幸せ。環境との共存という山頂を目指していると考えていて、あなたと私は「登り方と登山道が違うだけ」と考えていたが、違うのか?>

違う。違う山だし、他宗教の目指すのは頂上の無い山である。



〇 でも私は、一応は毎回ものみの塔のパンフレットも読んでいるし、聖書にも目を通した上で話をしているが、他の教えを学ばずに、一番高い山のてっぺんだと声高く宣言することは、霧の中の山頂ではないか?風が吹いてサーっと晴れて見渡せば、めちゃくちゃ低い富士山のふもとの山かもしれないよ?>

違う。絶対に違う。


〇でもあなたが「ものみの塔」をくれるように私がパンフレットを渡そうとしても絶対に受け取らないね?>

禁止されているわけではないが、心理的抵抗がある。



〇それを世間的にはマインドコントロールと呼ぶが?>

・・・・



このころ逆に彼から質問が!


彼「では観音寺さんは、死んでも良いとお考えですか?いつ死にたいと思いますか?消滅は怖くないですか?」


私「そうだなあ。私のところは7年に一度大きなお祭りがある。息子が25才ごろにその祭りがあるので、その時に代替わりをして息子と住職を代わる。全部終わった夜に風呂に入りながら。あ~良かったなあ~って静かに息を引き取りたいな。だから60才の年の5月5日夜の11時半やなあ。」


と言うと 彼「時間まで答えられたのは初めてです…」


私「自分の役割が終わったら死ぬことは怖くない。私もあなたと道は違えど仏教と言う信仰に生きているが、私が続くことに拘りはない。後に法か、心を伝えることが出来さえすれば誰かの中で生きるでしょうよ」



このような話を1年以上にわたって話して、ついに彼は自分の身の上を話してくれるようになった。エホバ三世で幼い子供のころから学校の友達を「世の子」として自分たちとは違う存在と教えられたこと。学校より兄弟たち、姉妹たち(エホバ信者のこと)の教えることを大事にしなさいということ。鞭うちが当たり前だったこと。実は漫画のワンピースが好きで隠れて読んでいること。


こういう話をしてくれるようになって喜んでいたら。…二度と来なくなった。


今までと同じ。揺らいだら遠ざける。肝試し


その後は老夫婦(こちらも偉いさん)が来るようになったが、にこやかな笑顔で人の話は全く聞かず、自分たちの話だけを一生懸命話す。それでもあきらめずお茶を出し色々挟んでいくが、旦那さんが引くと奥さんがつっこむ。見事な連携をみせてくれる。



お釈迦さまは、自在天(神)の存在や振る舞いに疑問を投げかけ、人間を面白おかしく左右する(ように見えてしまう)そういった存在に思いを馳せる暇があるのなら現実世界に目を向けて、苦しみを一つでも減らす努力をしましょう。と言われているし、




それをベースに真言宗では、思惟を重ね偉大なものの存在に言及している。

ただ、その偉大なものは、すべての物にその働き(智慧)の結果をすでに与えてくれている。すなわち、そら(宙)も空気も火も水も地面も。

極大の中にも極小の中にも等しく作用する偉大なチカラは、全にして一であるし、マンダラの中心(遠く)に行けばいくほど人格を離れ自性が無くなっていく。(逆に私たちは身近な現象に人格があるように感じてしまうが一切は無自性である)

宇宙はひたすらに万物を創り続け吸収し続け、泡の如く生と滅を繰り返している。密教僧はこれを1200年以上前から識(し)っていた。


日本の神道も人身御供(生贄)とは、切っても切れぬ歴史がある。近代まで残ってる。
神の要求に答え続けるということは、エスカレートした要求にも答え続けるということ。

身近な現象や不幸に神の人格(神様が怒っている等)を見出し、怒りを治めてもらうために貢物を重ねる→それでも災害や疫病が収まらない。→人身御供
(このエスカレートは常に恐怖にかられた人間の心が生み出すのだ!)

仏教伝来後はしっかり生贄の風習が減っていることは昔話にも残る。


偉大なものは人間が居なくても変わらず存在し、人間に要求することなど何もない。

だからこそ認識し感謝する。認識は意識を変える。

人間が特別愛されているわけではなく、石も水も土も空気も植物も動物もバクテリアやウィルスも皆等しい。

人間がそこにあるだけの石とも流れるだけの水とも違うところは、「言葉」を持ち、考えて人生をより良きものに変えたり、感じられたりするという一点のみなのだ。

世界を変えることができるのは
                        常に万物に感謝を持てる自分自身だ!


死ぬのが怖くて仕方がなく、ワンピースが好きだと言った彼は今幸せだろうか?


2020年2月11日火曜日

web版ではない観音寺通信55号(令和2年1月1日版)





















地獄と極楽 その違いとは

令和も2年目となりました。
厳かな即位の儀式の一連を見せていただいて、時代を超えて保存されてきた文化に背筋が伸びる気持ちを覚えた方も多いと思います。

  日本の骨組みが決定されたのは、嵯峨天皇の時代です。
弘法大師に厚く信頼を置かれた嵯峨天皇は、神道・国のトップでありながら、弘法大師の弟子となりました。
嵯峨天皇とお大師さまは、神道と密教の教えをすり合わせ、神仏融合を完成させたのでした。マンダラのように他人の信じるものを汚さずケンカせず、清濁あわせ飲み込んでいく日本の背骨なのです。

  その後 嵯峨天皇は、お大師さまの提案で、日本中に貴族だけでなく平民も通える学校を整備して読み書きを教えました。

 江戸時代、ザビエルやペリーは、アジアのみならずヨーロッパと比べても高い「平民」の識字率と教養に驚き、戦略を練りなおさなければなりませんでした。
嵯峨天皇とお大師さまの功績が無ければ、あっと言う間に東南アジア各国のように植民地にされていたでしょう。
  令和の世にもこの日本人の背骨を忘れないためにも教えを学んでいただきたいと思います。

  地獄と極楽。いくらこの世で裁かれることなくとも、閻魔の裁きは逃れられぬ!いくらこの世で評価されなくとも、お天道さまは見てござる。
とかく生きにくいこの世を生きていくための方便です。

良き人は極楽へ悪者は地獄へ。という表面的な教えだけではなく、幸せを得るための方法論でもあるのをご存じでしょうか?

地獄と極楽のお話にこういうのがあります。
地獄と極楽の食事。さぞや違うと思いますが、全く違いが無いそうです。
極楽も地獄も1メートル近い長ーいお箸で食事をしなければなりません。

違うのは心。
地獄に住む人々は、その長い箸で食べ物を自分の口に運ぼうとします。しかし、腕より長いお箸なので食べ物は、なかなか口に入らず、転げまわって食べようと苦しみます。近づけようとすればさらに遠くなってしまうこの食べ物の正体は…。
実は「幸せ」なのです。
自分で自分を幸せにすることはとても難しい。死ぬまで自分を喜ばせ続ける…
この難しさに気づきなさいということ。

お箸を短く持てば良いじゃないか!と思うでしょう?

人間楽しいことも日常になってしまえば幸せを感じることができなくなってしまいます。
コンビニで手に入るほとんどののものが昔の王様ですら手に入らなかった宝物ですよ!
と言われても、ふーんとしか思えない。

でも十日ほど砂漠で遭難した後ならコンビニのアイスクリームも涙をこぼして食べるでしょう。

箸が長ければ長いほど美味しい
でも長い箸で食べるのは難しいということです

極楽に住む人々は、その長いお箸を自分で食べるためではなく、他の人が食べるために使います。極楽の住人はみんなお互いの幸せを渡しあっているので極楽なのです。

web版ではない観音寺通信54号(令和元年7月21日号)




















迷うなかれ 誰しも必ず死す

仏教徒が絶対に外してはいけない教えは「生老病死の教え」と「諸行無常」です。どんなに良い人でも、どんなに金を持っていても、どんなにえらい人でも、老いの苦しみと病の苦しみと死の苦しみを免れることができない「常なるもの無し」ということ。この教えが根本にあって、現実を正しく解釈して生きる苦しみを受け入れていくのです。

ここを間違えると、迷信にとらわれてしまいます。仏教は現実を生きる為の哲学であり 問題を「あきらか」にする方法です。

アフリカでエボラ出血熱を治療しようとすると呪術師が邪魔をしたり迷信にとらわれた人が診療所を襲ったりすることが多々あります。医者が殺されたりすることもあります。「病になるのは悪魔のせいだ!」とか「キリスト教徒に体を触らせると治らなくなる!」とか
「呪術師を信仰しないから病になる!」等といった迷信にとらわれて現実の認識が歪んでしまっているのです。

アフリカを笑えないようなことは日本にもあります。
かなり心の強い人でも次々と悪いことが重なると不安になってしまいます。そこにつけ込むような扇動があると、つい迷信にとらわれてしまうことがあります。私も目を患ったときにには、
様々な「お誘い」がありました。
完全に死んでしまった左目が再生する夢のような話もありましたし、さらに悪くなるといった脅しもありました。
善意の顔の奥が恐ろしくなることもありました。
現実世界は残酷で苦しいものであり、環境や習慣や言葉、行動がすべてを決定づけていくことを二五〇〇年も前に見抜いたのがお釈迦さまです。

こんな話があります。
子供を亡くして泣き暮れている女性がおりました。女性はお釈迦さまに「子供を生き返らせてください」と頼みました。
お釈迦さまは「誰一人も身内が死んだことがない人のかまどの火をもらってくれば、あなたの子供を生き返らせてあげましょう」と言いました。
女性は喜んで「そんな簡単なことでいいのですか」と町中の家を回りました。ところが、尋ねてみると、誰もが父や母、祖母や祖父、夫や妻、兄弟、子供を亡くしており、「死」の無い人などいませんでした。それどころか、さらに苦しい別れを持つ人もたくさんおりました。
巡るうちに女性は自分の経験した「死」を正しくとらえ、受け止めました。女性は、お釈迦さまのところへ戻ると、もう生き返らせてくれとは言わず亡くなった子供のために手を合わせました。

死が時を選ばず誰にでも訪れるという現実を正しくとらえること(病も同じ)で、誰しもが苦しいことを知る。
「自分だけ何でこんな目に!」
と恨んだり何かのせいにしたりするのは本質を見失って迷っているのです。まさに「迷信」です。

起きてしまったことは変えられません。起こった出来事と、どう向き合うか、どう付き合っていくかを考え、心を落ち着け、自分や周囲の人を見つめて、必要であれば環境や習慣、言葉や行動を変えていくことで「 次の」結果を良いほうにも悪いほうにも変えていくことができる。
引き寄せることができる。
不思議なことは何も言ってないのです。
                                             

web版ではない観音寺通信53号(平成31年1月1日版)




















ー広大智恵観ー四国6週目結願

先日 観音寺として六周目となる四国八十八か所霊場のお参りが無事結願いたしました。

小学生四名をふくむ十九名が八十八番札所大窪寺までお参りすることができました。
三年以上にわたる巡礼は、仕事や体調、家族の状態、心理や金銭、スケジュールに至るまで、様々な条件が満たされなければ達成することができません。

今までにご縁を頂いた中にも途中で諦めざるをえなかった方、志半ばでお亡くなりになられた方もおられました。

白装束は「死に装束」道半ばで倒れることも決心したうえでの巡礼とはいえ、無事結願できたことにお喜び申し上げます。

この四国遍路を一番最初に企画してくださったのは、先日お亡くなりになられた、藤原秀一郎さんや中嶋義則さんでした。恥ずかしながら「四国遍路」という言葉すら知らないレベルの二十三才だった私に、手取り足取り道を示してくださったことを昨日のように思い出します。

何度も巡っている四国ですが、
参るたびに目に入るものが違います。同じところを参っても違う目で物を見ています。
二十三才の時は二十三才の眼で四十越えたら四十の眼で…今回は息子を連れていたので、息子を連れた眼で。

隅々にある色んな額や石塔、案内板。前回もあったはずなのに心に飛び込んでくるタイミングが違います。

今回大きく胸に響いたのは、八十四番札所  屋島寺の本堂に掲げてあった古い額縁。

「廣大智慧觀」

と書いてありました。
観音経に出てくる言葉です。
「こうだいちえかん」と読みます。
ひろくおおきな知恵の眼で物を見る 。 観点をシフトするための言葉です。

 例えば私の祖父は、六十一の若さで交通事故で亡くなっています。我が家に起きた一つの「不幸」かもしれません。
でも、祖父の死がなければ孫である私の人生は大きく変わっていました。

祖父として見ると急死という不幸ですが大きな流れを上から見ると、その「不幸」が現在の「幸」を生み出したことに気が付く。自分に起きた事を 様々な視点で理解し、納得し、悟るための言葉が 「広大智恵観」です

こういう小さな悟りが、四国には詰まっています。
三月ごろ 次の七週目の募集を開始します。一度巡った人も、次の悟りを求めて巡ってみませんか?


web版ではない観音寺通信ほんとの52号(平成30年1月1日版)
























御開帳前で疲れていたのか?なぜか52号が二つありました
結婚式っていう良いことあったのになんか文章が暗い…

仏前に慈悲の誓いを

人生楽あれば苦あり、また苦あれば楽あり。
喜びを感じること、悲しみを感じることだけではなく、自分以外の人の喜びや悲しみを感じていけることは、実は高等な思考能力で、磨かねば曇ってしまう力なのです。

  例えば、誰かの悲しみを見て
真の意味で同情することは、
簡単なことではありません。

安易な「かわいそう」という言葉は同情ではなく上から目線の、「哀れみ」になってしまうことが多々あることに気を付けなければなりません。

相手の悲しみ、苦しみ、憤り、怒り、喜びなどを完全に理解することはできません。しかし、それでも理解しようと試み、その人の悲しみを悲しみ、喜びを喜ぶことを「慈悲」といいます。 

「これやこれ108の迷いを観世音の慈悲の糸でつらぬき留めん。
生くる道、夫婦の真髄すべてこの数珠の輪にこもれり。両人相和して常に護持して忘るるべからず」
仏前結婚式の数珠交換では、この言葉をとなえます。
慈悲を心の芯にもって「愛や欲に迷わず」
真の言葉を(お互いに)かける。
これが人生を歩む知恵なのです。

真の言葉(しんごん)の神髄はこの世を正しく認識することから始まります。
正見(しょうけん)
  出来事を正しく見抜く
正思惟(しょうしゆい)
 正しく影響と結末を考え抜く
正語(しょうご)
  正しい言葉で相手に伝える
正精進(しょうしょうじん)
  今までしてしまったことを正しく反省し、再び繰り返さない努力をする

言葉一つす発することが、いかに難しきことか!

愛は感情、慈悲は理性に分類されます。
動物であるヒトが 他人と共同生活を営むために得た理性。
願わくば新夫婦が理性を持って、弥栄の道をあゆみたまえ。