2012年3月7日水曜日

気づきたい心


ブログを始めてから色んな出来事を注意深く見られるようになった。
花一つ、風景一つ。
長年見ていた同じ風景を、「観ていなかった」ことに、さらに気がつかせてもらった。

普段通り過ぎていく思考をより止めておこうと努力するようになった。

掃除の最中とか、ふっと頭にいろいろなことが沸いてくる。
禅宗なんかで、作務(日常の雑多な作業)を最重視する宗派もあるように、読経をしているときや、観(かん)をしているときより、よっぽど色んなことを考える。

庭掃除、堂内の掃除、どこかしこに四季を通じて、生老病死がある。

少し暖かくなっていたので、すでに雑草が芽を出し始めている。
雑草も、同じ草が一年中生えているわけでは無い。
名も知らぬ草が、季節に合わせ芽を出し、花をつけ、種をまく。
蜘蛛が巣を張る、ハエがかかる。
磨く、汚れる、人に出会う。連続する時間の中で、小さな気づきを繰り返す。

ある修験の行者さんと話をさせてもらったとき、「大峰の山々を巡るとき、細い尾根で霧がさーっと晴れた先に枯れた老木があった。生老病死をそのとき感じた」
とおっしゃった。その時、「庭掃除しててもそうですよね」と言うと「庭掃除では解らないだろう」
その時は、そうかもしれないと考えた。

山に登るようになって、山でしか見られない風景があるのも理解したのだが、庭の悟りと、山の悟りの違いは、より小さくなり、やはり同じ物だと思う。

10年以上前に亡くなられた、竹細工職人のおじいさんが、「竹も生き物だから、同じ種類の竹でも曲がりたい方向、切られたい方向がある。それを見極めないと完成したとき、気持ち良く使えるようにならない」と言われた。「この竹は、カゴになりたいか、衝立になりたいか、竹に聞かないと解らないが、竹と話をしていると宇宙と話しているような気になる」
作業をされながらの、何気ない会話を思い出す。

道を求めていると、結局同じところに向かっている。

小さい気づきを繰り返し繰り返し考える。
間違っていることもあるし、間違っていたかと思うとちがう気づきにつながることもある。

様々なことに「気づきたい気持ち」が、ブログを通じて大きくなった。


発菩提心 菩提を求めようとしない者に菩提は得られない。菩提を求める者にのみ菩提は道を開く。だから菩提心を発せ。

如実知自心(にょじつちじしん) 「実の如く、おのれの心を知る」ことが菩提。
また、菩提とは、安らかな心の状態でもある。


迷い多き世にあって、迷いたくないなら、おのれの心を知る気持ちを まず、「発す」のが発菩提心(ほつぼだいしん)

四国八十八カ所の阿波の国は発心の道場。この発心といっしょ。
発心→修行→菩提→涅槃

歩き始めれば、いつか着くかもしれない。歩かなければ着くことは無い。





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